タッキーソロデビュー!帝劇初の元日興行
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081010-00000045-sanspo-ent10月10日8時1分配信 サンケイスポーツ
人気デュオ、タッキー&翼の滝沢秀明(26)がソロデビューすることが9日、分かった。東京・帝国劇場で主演する公演「新春 滝沢革命」(来年1月1日〜27日)のテーマ曲(作詞・作曲、タイトル未定)を手掛け、公演に合わせてCDをリリース予定。
この日、作・構成・演出を担当するジャニー喜多川氏からビッグサプライズを聞かされた滝沢は「もうちょっと早く聞きたかった。参りましたね」と苦笑しつつ、「いつもと違う形でお客様に提供できるのはいいこと。死ぬ気でつくりたい」と意気込んだ。
公演は2幕構成のミュージカルで、竹取物語や浦島太郎など日本昔話の要素を取り入れたオリジナルの作品。2幕の幕開きでは80歳のおじいさんになって登場し、老けメークに挑む。ジャニー喜多川氏は「声も完全に変え、誰か分からないぐらいにしたい」と話す。滝沢は「(ジャニー氏の)イメージ通りのおじいちゃんにしていきたい。自分の80歳?想像つかないですね(笑)」。
帝国劇場での元日興行は、昭和41年に現在の帝劇が開場して以来、初めて。フライングなど豪華演出も期待だ。5年ぶりの帝劇での主演に「元日からお客様と過ごすのは初めて。充実した1年にしたい」と瞳を輝かせた。
YouTube タッキー&翼Wikipedia より
タッキー&翼
タッキー&翼(タッキーアンドつばさ)は、滝沢秀明と今井翼の男性アイドルデュオ。所属事務所はジャニーズ事務所。所属レコード会社はエイベックス。略称は「タキツバ」。英字表記は「Tackey and Tsubasa」、中国語表記は「瀧與翼」、ハングル表記は「?? ? ???」である。
メンバー
* 滝沢秀明 (たきざわ ひであき、1982年3月29日 - 、A型)
滝沢 秀明(たきざわ ひであき、1982年3月29日 - )は、日本の俳優、タレント、歌手。東京都八王子市出身。ジャニーズ事務所所属。愛称は「タッキー」(Tackey)で、タッキー&翼としても活動している。身長168cm。 血液型A型。
家族
* 母、3人姉兄で4人家族の末っ子。家族には「秀明」、親戚には「秀君」と呼ばれている。
* 母が滝沢を出産時、分娩室に間に合わず、病院内のベンチで誕生した。
* 兄弟けんかばかりしていたが「お兄ちゃん大好き」「お姉ちゃん大好き」でもあり、いつも一緒に遊んでいた。今でも家族の事を「お姉ちゃん」「お兄ちゃん」「お母さん」「おばあちゃん」と呼んでいる。
* 中学2年生からギャラを貰い16歳で1人暮らし開始、10代の頃から先輩と共に長者番付に名を連ねていた。「1度でいいから孫と住みたい」という祖母の願いを聞いて、23歳で豪邸を都内に建て、母と祖母にプレゼントした。
* 地元八王子市を愛しており、公式携帯サイトの自身の日記でもたびたび「八王子大好き」という発言をしている。
* 小学生の頃は八王子市内の少年野球チームに所属していた。当時のチーム監督が経営しているラーメン屋には滝沢のサインや写真が飾ってある。
* 作詞・作曲するときは「LaVenDer」という名前を使うことがある。
趣味・嗜好
自分では「綺麗な男性」「美形」「美少年」といわれるのはうんざりしているらしく、自称「もっと男っぽい」との事。 理想の女性のタイプは「華奢な肩」「気配りの出来る人」で、巨乳には興味がなく、信号待ちの内股に女らしさを感じるとの事。理想のタイプの芸能人としては松下由樹の名をあげている。また、「ズバリ言うわよ!」内でヤンキー系が好きと発言しており、自分の顔の前で放屁されても構わないという。無邪気で何でもぶつけてくれる子が好き。(Myojoより)
又、業界でも有名なプロレス好きで、小学生の頃大仁田厚の追っかけをしていたほか、2000年には「力道山メモリアル」でアントニオ猪木とエキシビジョンマッチで戦い(レフェリーを務めた藤原喜明の高速カウントの助けもあって)勝利したこともある。また、マイナーな団体の試合での目撃情報もあるほどのマニアである。
ヴィジュアル系バンドPIERROT、X JAPANが好きだったとのこと。自身のPVや振り付け、衣装などにその片鱗をちりばめるなど、リスペクトしている。
カラオケに行くと必ずしめとして最後に「サライ」を歌う。(堂本兄弟などより)
かにが大好きで、よく富山に食べに行くらしい。
靴下が大嫌いで家に帰るとすぐに脱ぐ。
* 今井翼 (いまい つばさ、1981年10月17日 - 、A型)
今井翼(いまい つばさ、1981年10月17日 - )はジャニーズ事務所に所属する日本の俳優、タレント、歌手で、タッキー&翼としても活動している。身長173cm。血液型はA型。神奈川県藤沢市辻堂(出生地は横浜市)出身。藤沢市立明治中学校卒業、八洲学園高等学校新宿校卒業。クラブ活動の野球部は地元小学校ではなく、隣接する藤沢市立辻堂小学校に所属。
二人ともジャニーズJr.で活動していた頃より人気が高かったため、デビューが待ち望まれていたが、所属事務所社長・ジャニー喜多川より、「20歳になったら2人をデビューさせたい。」と公約。その時には2人のユニットになるか、お互いソロで活動するか決まっていなかったが、その後、滝沢から今井に「2人で活動していかないか?」と持ちかけ、2人でのユニット結成、CDデビューとなった。
二人で交流を持つようになったのはデビューする3年前からであり、ジャニーズJrの頃は、「(Jr時代は)お互い、殆ど喋らなかった。むしろお互いに避けていたところがあった」そうである。これはCDデビューを記念した東京ドームのコンサートで、開演直後に放映されたVTRにて公表された。
2002年9月11日、シングルではなくアルバム『Hatachi』を最初に発売する変則的な方法でCDデビュー。テレビ朝日系列のゴールデンタイムで2時間特番が放送されるなど大々的な宣伝が行われたが、当初は期待されたほどのヒットにならなかった。
2003年11月、シングル『夢物語』が初のオリコン1位を獲得しロングヒットに。派手な衣装などが注目を集め、人気とスタイルを確立したが、この作品により今までの作品とは違い、ノリを求める楽曲、また正統派アイドル歌謡路線に方向性が向くようになった。
2007年8月18日、8月19日に放送の24時間テレビ 「愛は地球を救う」(日本テレビ)では初めてのメインパーソナリティーを務めた。
ジャニーズとしては珍しく、現在までにどちらかが主演したドラマの主題歌を手掛けた事が一度もなく、ほとんどがジャニーズ所属主演ではなく、なおかつ一人もジャニーズは出演していない作品の主題歌に起用されている。(Ho!サマーなど。)
2008年、バンダイナムコゲームスからリリースしたWii専用ソフト「ファミリースキー」で、2人揃っての初のCM出演を果たした(任天堂版のCMも実在するが、こちらは出演していない)。
ジャニー喜多川
ジャニー喜多川(ジャニーきたがわ、Johnny H. Kitagawa、本名: 喜多川 擴(きたがわ ひろむ)、1928年10月23日 - )は、日本の実業家・芸能プロモーターで、ジャニーズ事務所、ジャニーズ出版、ヤングコミュニケーションの社長である。
ロサンゼルス生まれで日系二世。日本に帰化後は一時、和歌山県和歌山市に在住していた。
* 真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院の僧侶・喜多川諦道(1946年から1949年まで、プロ野球チーム「金星スターズ(元・ゴールドスター)」のマネージャーだった人物) の次男として、1928年10月23日にアメリカ・ロサンゼルスに生まれる。母親は幼少時にアメリカで死別している。ちなみに子供の頃のあだ名は「ヒー坊」だった。
* 太平洋戦争開戦後、日系人の強制収容により、父、姉(メリー喜多川、当時の本名: 喜多川泰子)、兄(あだ名は「マー坊」。NASAでアポロの設計もしていた科学者だったが現在は故人)、そして弟と共に、カリフォルニア州内に抑留されるが、1942年6月18日の第一次日米交換船で帰国した。
* 終戦まで日本で過ごし、両親の出身地・和歌山県和歌山市に在住していた。しかし、1945年7月9日の和歌山大空襲で焼け出される。戦後は姉とともに再渡米、ロサンゼルスの高校を卒業。
* そして1952年、陸軍犯罪捜査局(CID)の情報員として、ロサンゼルス市立大学[1]を卒業した姉と共に日本に再帰国する。米軍関係の仕事の一環として、当時勃発していた朝鮮戦争による戦災孤児に英語を教える為に、日本で僅か10ヶ月で朝鮮語をマスターし、すぐ韓国の板門店に出向き、1年2ヶ月間に渡って子供達に英語を教えた。日本への帰国後は、アメリカ大使館で軍事顧問団に勤務。
* その後、上智大学国際部に進学し、卒業。大学在学中の1955年にバンドを結成し、芸能界へ参入。
ジャニーズ事務所の設立
* 1960年代初頭、ジャニー喜多川は自分の住んでいた東京の在日米軍宿舎「ワシントンハイツ」(現在は代々木公園)にて、近所の少年たち約30名を集めた少年野球チームのコーチをしていた。そのチーム名は、喜多川擴のアメリカ国籍での名前「ジャニー」からとって「ジャニーズ少年野球団」と名付けられた。このチームのメンバーには、浜田光夫、小畑やすし、設楽幸嗣らも居り、応援団には松島トモ子までもが居た。しかもプロ球団や力道山などに支援されていて、練習場も後に池袋の立教大学のグラウンドへと移行した。ある日、このチームのメンバーの中から代々木中学校に通う4名を選び、映画館に連れて行く。そして、そこで観た『ウェストサイドストーリー』に一同感動し、エンターテインメント事業を興そうと決意する。そしてこの4名の少年で、最初のグループであるジャニーズを1962年4月に結成。最初は池袋西口にある芸能プロダクション「新芸能学院(現:名和プロダクション)」に籍を置いていたが、1962年6月にジャニーズ事務所を創業。1975年1月になって正式に株式会社として法人登記される。
* 姉のメリー喜多川は、1950年代から四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のカウンターバーを経営しており、バーの客だった東京新聞記者(後に作家)の藤島泰輔と結婚した。ジャニーがジャニーズ事務所を興すとバーを閉店し、事務所の経理を担当するようになった。
* 事務所の黎明期には、フォーリーブス・たのきんトリオ・シブがき隊・少年隊・光GENJIなどで正統派男性アイドルの礎を築き、また正統派だけでは通用しなくなると、SMAP以降の男性アイドルの活躍の場をバラエティの分野にも拡げた。
男性タレントに対する同性愛行為について
ジャニー喜多川が同性愛者であり、事務所に所属する男性タレントに対してデビューや売り出しと引き換えに同性愛行為を行っているとの話は、1960年代から散発的に繰り返し報道されていた。
元所属タレントの告発も相次いだ。元フォーリーブスの北公次は『光GENJIへ』(データハウス、1988年12月)を、元ジューク・ボックスの小谷純とやなせかおるは『さらば!!光GENJIへ』(データハウス、1989年9月)を、元ジャニーズの中谷良は『ジャニーズの逆襲』(データハウス、1989年10月)を、平本淳也は『ジャニーズのすべて―少年愛の館』(鹿砦社、1996年4月)を上梓し、実態を暴露した。
1988年から1989年にかけては、月刊誌「噂の眞相」もこの問題を数回取り上げた。1999年には、週刊文春がジャニーズ事務所に関する特集記事を掲載し、ジャニーが所属タレントに対して同性愛行為を行い、事務所では未成年所属タレントの喫煙などがあると報道した。これに対しジャニー側は、名誉毀損であるとして文春側を訴え、1億円あまりの損害賠償を求める民事訴訟を起こした。
なお、自民党衆議院議員・阪上善秀(現・宝塚市長)が2000年4月13日にこの問題を衆議院で取り上げている
裁判
2002年3月27日の一審判決ではジャニー側が勝訴し、東京地裁は文春側に880万円の損害賠償を命じた(井上哲男裁判長)。文春側はこれを不服として東京高裁に控訴した。
2003年7月15日の二審判決では、ジャニー側の同性愛行為を認定した(矢崎秀一裁判長)。このため同性愛部分の勝訴は取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。ジャニー側は損害賠償額を不服として最高裁に上告したが、2004年2月24日に棄却され(藤田宙靖裁判長)、120万円の損害賠償と同性愛行為の認定が確定した。
オカルト批判団体・ジャパン・スケプティクスの機関誌『NEWSLETTER 53号』では、当時同会の副会長だった草野直樹がこの問題に言及。芸能マスコミが、判決について一審の880万円から120万円に減額された事実だけをベタ記事で書いて済ませ、「同性愛行為が認められた」という理由を書かなかったことを批判。「マスコミの誤りというのは、『間違ったことを報じる』だけでなく、『必要なことを報じない』ことも含まれる。そして後者の多くは、いくつかの『タブー』に縛られていることが原因になっている」とし、報道におけるタブーのベールを抜いた報道は、オカルト・疑似科学の類と同様に騙されないようにしよう、と訴えて話題になった。(鹿砦社『ジャニーズスキャンダル調書』より)
また、ニューヨーク・タイムズ、オブザーバーなどの海外メディアでも大々的に取り上げられ、この問題をタブー視するなどして報道しない日本のマスメディアの姿勢を批判した。