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韓国でも酒井法子失踪を報道…検索語の上位に
酒井法子さん、
何事もなく、戻られるといいのですが。
気になりますね、
しかし
なくなりませんね、
薬物の使用
8月5日14時38分配信 WoW!Korea
女優の酒井法子が、夫で自称プロサーファー高相祐一容疑者(41)が3日未明に渋谷区内の路上で覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕された直後から消息不明となっている。
韓国でも各社が失踪について報道し「トップ女優失踪で日本中に衝撃」と伝えている。また、有名ポータルサイトでは「酒井法子失踪」が検索語上位に浮上するなど、韓国ファンも心配している状況だ。
酒井法子(38)は今月3日から10歳の長男とともに消息不明になっており、昨夜には所属事務所<サンミュージック>の社長が赤坂署に捜索願を出したことを明かし、テレビを通じ無事を祈るとともに「連絡がほしい」と訴えかけた。
本日5日には、酒井の携帯電話の電波が山梨県の身延山付近で途絶えていたことが判明したが、その後の行方はわかっていない。
酒井は14歳で芸能界デビューし、現在まで第一線で活躍を続けてきた。1990年代からはアジア地域にも活躍の場を広げ、特に中国ではCDリリースやコンサートを開催するなど人気を博した。韓国には2003年、映画『呪怨2』のプロモーション活動で訪問しており、同映画は韓国内でもヒットを記録した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090805-00000022-wow-ent
Wikipedia より
酒井法子
酒井 法子(さかい のりこ、本名:高相(たかそう)法子(旧姓酒井)、1971年2月14日 - )は、日本の元アイドル歌手、女優。堀越高等学校卒業。所属事務所はサンミュージックプロダクション。所属レコード会社はビクターエンタテインメント。福岡県福岡市出身。血液型はB型。
来歴
福岡市に生まれるが、家庭の事情により小学校時代の6年間を埼玉県狭山市で過ごす。6年生の3学期に帰郷して福岡市立大名小学校を卒業。福岡市立舞鶴中学校ではソフトボール部に所属し、3年生になった(クラスは3組出席番号は33番)1985年の夏に9番ライトで県大会準優勝を果たした。
1985年10月26日の「'86ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」(資生堂主催)でBOMB!賞を獲得(グランプリは水谷麻里、準グランプリは岡谷章子、Momoco賞は畠田理恵が受賞)。ただし、当初このコンテストにBOMB!賞なる賞は存在しておらず、実際にはオーディション落選後に、サンミュージックの専務が「『彼女の』才能を試してみたい」、と願い出たことでデビューの運びとなった[1]。BOMB!賞はその際に急遽新設され、11月22日付で贈られている。
同年12月、福岡市から上京し、所属事務所の社長である相澤秀禎宅で下宿生活を始める(福岡市立舞鶴中学校から東京の中学へ転校)。
1986年1月開始の日本テレビ系のテレビドラマ『春風一番!』でデビュー(収録は前年の1985年12月から開始されているので、芸能活動は上京直後からになる)。ほぼ同時に雑誌『Momoco』の「モモコクラブ」のメンバーとなる(桃組出席番号1482番)。その後、4月29日のイベント「'86 MOMOCO PARTY」において開催された「第2回ミスモモコクラブ」オーディションでミスVHD賞を受賞(この時のグランプリは畠田理恵)。これにより当時売り出し中だったビデオディスクであるVHDソフトの発売が決まり、11月21日、『YUPPIE』で世界初のVHDデビューを果たす。このVHDの挿入歌「お願いダーリン」を非公式のデビュー曲とする見方もあるが、正式なレコードデビューは1987年になってからである。同期にBaBe、坂本冬美らがいる。
レコードデビューすると同時に若者を中心に人気を獲得。3枚目のシングル「ノ・レ・な・いTeen-age」で、その年の第18回日本歌謡大賞最優秀放送音楽新人賞を受賞する(同年の第29回日本レコード大賞の最優秀新人賞は立花理佐が受賞)。
キャッチフレーズは「おきゃんなレディ」。デビュー当時のニックネームは「のりっぺ」(福岡での中学生時代のニックネーム)だったが、デビューしてしばらく経ってから「のりピー」と名乗り出す。同時に「ヤッピー」「いただきマンモス」「うれピー」といった、「のりピー語」を流行させた。
アイドル時代の活動は多岐に渡る。芸能活動のほかにイラストレーター・漫画家(ペンネームは平仮名の“さかいのりこ”)としても活動し、少女漫画雑誌『週刊少女コミック』に漫画の連載を持ったこともある。中学生の頃に自ら生み出したというキャラクター「のりピーちゃん」は、日本自動車工業会の交通安全ポスターにも使われた。また、そのキャラクターグッズも自身のショップ『NORI-P HOUSE』で販売されて人気を博し、当時のタレントショップブームの一翼を担っていた。
1990年代以降、東アジア(台湾、香港、中華人民共和国など)では日本での活躍以上の絶大な人気を誇り、中国語歌唱による楽曲も発表している。1992年5月10日と11日に行われた自身初の海外公演である台北市立総合体育場でのコンサートは、台湾における日本人初のワンマンショーとなった。
その頃から女優としても本格的な活動が始まり、フジテレビ系『ひとつ屋根の下』、日本テレビ系『星の金貨』など、出演したテレビドラマが大ヒットすると同時に、『星の金貨』の主題歌として自ら歌った『碧いうさぎ』がミリオンセラーとなり、1995年、デビュー9年目にして『第46回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。歌唱曲がドラマの主題歌だったこともあり、紅白史上初めて手話を交えて歌った。
1998年にプロサーファー・高相祐一とおめでた婚。プロサーファーと言っているが日本プロサーフィン連盟・JPSAの公認プロとして、一切エントリーされていない。また、世界プロサーフィン連盟日本支局・ASP Japanのランキング一覧にも彼の名前を見つけることはできない。1999年7月18日、長男を出産。現在は1児の母。
2000年に産休から復帰したが、デビュー当時からの担当マネージャーだった溝口伸郎が自殺。
その後、子育てと女優活動を両立しながら2003年にはファッションブランド『PP rikorino』を立ち上げるなど、現在もマルチに活動している。
エピソード
1990年代半ば以降、趣味としてマリンスポーツ(ボディボード)を楽しむようになった。
夫は木梨憲武からの紹介。夫はスキーショップ『JIRO』経営者の長男(後継者)であり、同チェーンショップの役員でもある。
後年、「のりピー語は20歳を越えた頃から似つかわしくないと思うようになった」と本人がテレビ番組で語っている。当時の事務所社長の相澤秀禎も「のりピー語」は酒井を売り出すための戦略であったことを自著で明かしている。最近ではエドはるみが当時を懐かしむようにのりピー語を使っている。
フジテレビ系『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』の「テレフォンボックス」のコーナーに出演の際、嵐の大野智ファンで(その理由は“踊りも歌もうまいから”)、コンサートにも行った旨を発言した。