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三原じゅん子さん昔から「恋多き女」っていうか男性遍歴といいますか、忙しい方ですよね。
進行がんの子宮の腺がんと診断され、子宮を全摘出をしたけれど「出産の可能性を残す」ため卵巣を残して子宮のみ全摘出する方法を選択したという。
技術的に可能なんですね、卵巣を残して子宮のみ全摘出することが。
体調は良好で「私の中ではもう治った、過ぎたことになっておりました。以前より、益々、心身共に元気です!」とブログに、つづっているとか。
三原じゅん子、子宮がん全摘出手術
3月19日9時25分配信 デイリースポーツ
女優・三原じゅん子(44)が昨年7月に子宮がんの全摘出手術を受けていたことが18日、わかった。所属事務所によると、昨年3月に人間ドックで発覚し、同7月に全摘出手術を受けた。手術は成功し、経過も順調で元気に仕事をこなしているという。三原はこの日、ブログで具体的な病名は明かさなかったが「もう治った。今はすっかり元気です」とコメントした。
◇ ◇
2度の結婚と離婚。そして流産。人生の荒波を乗り越えてきた三原に、さらなる苦難が待ち受けていた。
19日発売の女性セブンによると、三原は昨年3月に人間ドックを受けた際、子宮に異常がわかり、再検査で子宮頸がんと診断された。発見時の状態は早期で、当初は部分切除で完治するとみられたが、4月に切除手術を行った際に進行がんの子宮の腺がんと診断され、7月に子宮を全摘出したという。
三原の関係者によると、術後の経過は良好で、通院も半年に1回のペースで、今のところ再発の可能性はないという。術後は、わずか2週間で仕事復帰し、舞台に出演。現在もフジ・関西系の昼ドラ「非婚同盟」に出演している。
三原は、過去に2度の流産を経験。15年前には卵巣のう腫で卵巣を片方摘出している。今回は残されたもう片方の卵巣を摘出せず、出産の可能性を残したい、と3カ月かけ病院を回った。そして、転移の可能性があるものの、卵巣を残して子宮のみ全摘出する方法を選択したという。
三原はこの日、ブログでコメントを発表。子宮がんという病名は伏せたが「デリケートなことでもあり、また仕事柄、周囲に迷惑をかけると思い公表しなかった」と明かした。ただ、体調は良好で「私の中ではもう治った、過ぎたことになっておりました。以前より、益々、心身共に元気です!」とつづっている。
また同誌では、苦悩の時期を支えた存在として音楽活動を共にするキーボード奏者のSATOSHI(33)を恋人と明かしたが、所属事務所は「たくさんいるボーイフレンドの一人ということです」とした。
参照記事http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000005-dal-ent
Wikipedia より
三原じゅん子
三原 じゅん子(みはら じゅんこ、本名:三原 順子〈読み同じ〉、1964年9月13日 - )は、東京都板橋区出身の女優、元歌手。以前は本名で活動。血液型はB型。明治大学付属中野高等学校定時制中退。
来歴・人物 [編集]
1971年、私立淑徳小学校に入学。翌1972年、東京宝映テレビ・劇団フジに入団。入団まもなく、劇団フジ定期公演「青い鳥」に出演。続いて「マッチ売りの少女」の主役に抜擢される。 1975年、第29回定期公演で「強制収容所の少女」の主役シズエを演ずる(ダブルキャストで大場久美子)(4年後の第43回公演に於いて再びシズエ役を演ずる)。1977年、私立十文字学園中学に入学。『燃えろアタック』への出演が始まるが、学校が芸能活動を許していなかったため、2年2学期に自主退学し、板橋区立志村第一中学校に転校する。
1979年、『3年B組金八先生』に出演し、第13話以降「山田麗子」役で役柄からの「つっぱり」のイメージで人気が急上昇した。リンチをするシーンでは自分では殴らず大人数を指揮し、「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」のセリフは有名となり、三原を表す代名詞になった。
1980年、明大中野学校定時制に入学。同年に歌手デビュー。以降、1986年までコンスタントにシングルを発表した。ビーイング創設者の長戸大幸が作曲したデビューシングル「セクシー・ナイト」は売り上げ30万枚を超えるヒットとなり、同時期の「マルベル堂・プロマイド人気」では第1位となった。当時は山口百恵引退直後だったため、“ポスト百恵”と言われた。同期歌手デビューには『3年B組金八先生』で共演した田原俊彦のほか、松田聖子、河合奈保子、柏原芳恵、岩崎良美、浜田朱里、甲斐智枝美らがいる。1982年には「だって・フォーリンラブ・突然」のロングヒットで第33回NHK紅白歌合戦に出場、「ホンキでLove me Good!!」で紅組トップバッターを務めた。
1984年、20歳の誕生日を機に本名の「三原順子」から現在の「三原じゅん子」へ芸名を改める。また、JUNKOというアーティスト名で本格的なハードロックのバンドを組み、ライブ活動をしていた時期もある。
1987年から1999年にかけては、カーレーサーとしても活動。国際B級ライセンスを持つ。レース中の事故による骨折も7回経験しているという。2005年からはレーサー時代の経験を活かし、二輪レースチーム「weave×MIHARA PROJECT」のオーナー兼監督を務める。
現在は「ケントス」等でライブ活動の傍ら、バラエティ、女優業に幅広く活動している。 1987年以降、テレビドラマでは主に2時間ドラマでの犯人役や悪ぶった役で中途で殺されるような脇役が中心であったが、1999年のNHK『すずらん』を契機として、『ファイト』に出演した際のように三枚目的な役柄も好演しており演技の幅を広げている。
男性遍歴 [編集]
1980年12月23日、16歳の人気絶頂期のころ、当時19歳だった宮脇康之と交際宣言会見を開く。「三原順子」時代には宮脇のほか、沖田浩之との交際が報じられた。
改名以後は、1986年にロックバンド「東京JAP」の立川利明との同棲が発覚(『フライデー』2月7日号)。1987年4月2日には立川とともに『フライデー』の記者に暴行し目白署に逮捕された(悪質なものではないとして同日に釈放)。
さらにマイケル富岡との熱愛報道を経て、1990年6月にはレーサーの師匠でもあった松永雅博と交際開始。同年10月には妊娠もすぐに流産、同年11月に結婚。8年後の1998年2月より別居、1999年5月20日離婚。
『女性自身』1999年1月19日号に、1998年11月17日に撮影された、某男性との肩枕寝姿の列車内(岐阜県下呂から名古屋)写真が掲載される。また同時期、巨人コーチの水野雄仁との同棲が報道された。
1999年11月28日、お笑いコンビ「アニマル梯団」のコアラ(のちにハッピハッピー。と改名)と再婚。2000年6月1日に大々的な披露宴を開いた。2000年7月に妊娠3ヶ月のオメデタ会見を開くも、同年8月19日2度目の流産。その後、夫のダイエット記録本の出版も好評を得て、かなりのおノロケぶりをアピールしていたが、2007年6月12日に離婚報道、同年10月6日に離婚。同年10月12日と19日の2週にわたって『中居正広の金曜日のスマたちへ』にて、双方の立場の再現ドラマ付で異例の離婚告白を行った。
2008年、『フライデー』2月5日号「新恋人と婚前旅行」では、1月16日 ケアンズから帰国したミュージシャンのsatoshiとのツーショットが。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000005-dal-ent