近藤真彦がムード歌謡!伊集院氏と再タッグ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081121-00000046-spn-ent11月21日7時1分配信 スポーツニッポン
歌手の近藤真彦(44)がムード歌謡に初挑戦する。新曲「BANKA〜男たちの挽歌〜」で12月23日発売。これまで伊達歩のペンネームで「ギンギラギンにさりげなく」「愚か者」などを手掛けた作家の伊集院静氏(58)が作詞を担当。2人がタッグを組むのは21年ぶりになる。
マッチもムード歌謡が似合う年齢になった。
友よ 今夜は グラスをかかげ おまえのために BANKAを歌おう――耳に残る低音と昭和のにおいが漂う歌詞。今年1月にジャニーズ事務所の後輩バンド「Question?」とユニット「MATCHY with QUESTION?」を組み、リリースした「目覚めろ!野性」の激しいロックサウンドから一転した作品になった。
22歳の時に歌い、87年の日本レコード大賞を受賞した「愚か者」もスローテンポで男くさい歌詞が特徴だった。近藤は「愚か者を44歳になって歌うと“それなりの年になったな”と感慨深い。それと同じように、60歳になっても歌える曲ができた」と満足げに語る。
原曲はスロバキアで作られ、約200曲の候補の中から選ばれた。作詞の伊集院氏とは、87年6月に発売した「さすらい」以来のタッグ。今回初めて「伊集院静」名義で詞が提供された。
近藤にとって伊集院氏は「人に言えない相談にも乗ってもらう親父的な存在」。会う度に作詞を要請していたが、今回は新曲候補として聴いた直後から「この曲につける詞は伊集院さんしかいない」とオファーし了承を得た。伊集院氏は「大人の男の歌ができました。多くの人に歌ってほしいです」とコメントしている。
懐かしい曲調に合わせるかのように、レコーディングも一昔前の手法で行われた。スタジオにバンドが入り生演奏する中、近藤が歌を収録。酒場で男が独りでしんみり歌っているような雰囲気の中、近藤の男の色気が存分に発揮された。
YouTube 近藤真彦 25周年 メドレーWikipedia より
近藤真彦
近藤 真彦(こんどう まさひこ、1964年7月19日 - )は、ジャニーズ事務所所属の歌手・俳優、であり、同事務所の取締役でもある。 血液型O型。ニックネームはマッチ(名付け親は事務所の先輩松原秀樹)。 神奈川県横浜市瀬谷区生まれ、大和市育ち。 大和市立渋谷中学校、明治大学付属中野高等学校夜間部卒業。同級生に野々村真、野村義男などがいる。
また、レーシングチーム「KONDO Racing」を運営する株式会社エムケイカンパニーの代表取締役社長兼チーム監督としての顔も持つ。
タレント活動
1979年10月、TBSのドラマ、『3年B組金八先生』の生徒役でデビュー。同じく生徒役だった田原俊彦/神奈川県横須賀市出身だが、小学校1年生の7月に山梨県甲府市に/、野村義男とともに「たのきんトリオ」として活躍。その後ソロ歌手デビューし、1980年代を代表する男性トップアイドルとして君臨し、ザ・ベストテンやザ・トップテンなどの歌謡番組を中心に活躍した。1981年、1983年のブロマイド年間売上成績で第1位を獲得。また、ファンによる数々の“親衛隊”も誕生(代表的なグループは「卑弥呼」)。 そして、ステージ用の応援コールとして「G・U・T・Sこんどーまさひこアダルトタッチのセクシーボーイ ま〜っさひ〜こ〜」という有名なフレーズも作られた。
1980年7月17日放送の『ばらえてい テレビファソラシド』において、美空ひばり/横浜市磯子区滝頭出身/の歌をリハーサルで聴き、それが誰かを知らず、「おばさん、歌うまいね。」と発言。周囲のスタッフを凍りつかせる。しかし、当の美空ひばりは「私、今まで面と向かって他人(ひと)から上手いって言われたことがなかったの。」と笑顔で答えた。(共演者の小堺一機/千葉県市川市生まれ/の発言による) それ以来美空には可愛がられた。
2005年末にデビュー25周年を迎え、ソロとしては7年7ヶ月ぶりに新曲「挑戦者」をリリース(楽曲提供ロクセンチ)し、芸能界への復帰を宣言。復帰の第一弾として25周年記念ディナーショーを開催し、歌手としては約7年ぶりにファンの前に姿を現した(鹿児島、東京公演では少年隊がゲスト出演)。同年以降のジャニーズ年越しライブにもスペシャルゲストとして参加している。ジャニーズ事務所内では一番の年長者でボス的な存在(生活指導担当)とはいえ、ジャニーズのファン層がもはやマッチが第一線で活躍した時代を知らない人が多数になりつつあることもあり、2005年以降の年越しライブに参加して歌を歌い、改めて年長者としてのケジメをつけている。さらに2006年2月14日に日本武道館で行われた25周年記念コンサートでは、前売りチケットが発売開始後5分で完売。当日のステージでも、約7年のブランクがあったことを感じさせない熱唱ぶりを披露し、'80年代以来のファンを大いに魅了した。また、サプライズゲストとしてKAT-TUNの亀梨和也が応援に駆けつけた。さらにサプライズとしてアンコールでは報道陣をステージに集結させて記者会見を開いたが、その後マッチ本人の意思による掛け声と共に「ギンギラギンにさりげなく」の楽曲が掛かり、あらゆる報道陣と共に熱唱していた。
武道館コンサートは2007年2月14日にも再演が決定し、当公演のアンコールでは1990年7月20・21日に行われた東京・日比谷野外音楽堂でのデビュー10周年記念コンサート以来17年ぶりに短パン姿となって「スニーカーぶる〜す」等を熱唱した他、ピンク・レディーの「ウォンテッド (指名手配)」、西城秀樹/広島県広島市出身/の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」といった他のアーティストの楽曲も披露した。会場の1階の客席には森光子/京都府京都市出身(2006年2月14日・2007年2月14日・2008年2月14日)や黒柳徹子(2007年2月14日・2007年3月11日・2008年2月14日)の姿もあった。また2007年2月14日の追加公演として2007年3月11日の「ちょっと早いWhite-dayコンサート」の実施の他、2008年2 月14日にも「近藤真彦〜08.02.14武道館で”ひとくぎり”ケジメLive!!〜」として再演が決定し、この3年連続の公演を以って(日本)武道館コンサートに一区切りをつけている。2007年3月11日の追加公演では「大将」の間奏中に自身がデビュー後初めて公約していた通りの華麗なフライング(宙吊り)を披露している場面や「YOUNG MAN (Y.M.C.A)」の途中でSMAPの中居正広/神奈川県藤沢市辻堂出身/と少年隊の植草克秀/千葉県千葉市中央区出身(2006 年2月14日以来)が応援に駆けつけた。なかでも中居は大のマッチファンでもあり、特に思い入れのある曲「うそのない言葉」をデュエットで熱唱し、初回以上に追加公演の方が盛大となった。 2008年2月14日の公演では「スニーカーぶる〜す」から「目覚めろ!野性」までの全シングル44曲を完全熱唱し、途中15分の休憩を挟んで3時間30 分に及ぶロングラン公演となった。後半ではサプライズゲストとして元たのきんトリオの野村義男が駆けつけ、ライブでは12年ぶりに共演を果たしたほか、少年隊の植草克秀(2007年3月11日以来)やタッキー&翼の滝沢秀明と今井翼も応援に駆けつけた。なかでも今井翼はマッチと「少年のこころ」をデュエットで熱唱していた。そして、2007年12月から期間限定で結成されたユニット「MATCHY with QUESTION?」がこの日を最後に解散となった。
2006年2月14日のダイジェスト版と2007年2月14日の日本武道館での公演の模様を収録したDVDが2007年5月9日にリリースされた。オリコン5月21日付音楽DVDランキングで初登場1位を獲得した。続いてファンからのリクエストとして公演後から殺到していた2008年2月14日の日本武道館での公演及び 2007年12月26日公演のディナーショー等の模様を収録したLIVE DVDが本人の44歳の誕生日となる2008年7月19日に併せて同日にリリースされた。 2007年5月9日に発売されたLIVE DVDについては、映像作品では1987年3月30日付にビデオ『OH!ROCK'A MONO』で獲得して以来、実に20年2か月ぶりの1位獲得となった。2006年9月1日放送の「金曜エンタテイメント『内田康夫旅情サスペンス 岡部警部シリーズ〜倉敷殺人事件〜』(フジテレビ系)では「ドンウォリー!」以来のドラマ主演を務め、続いて2007年8月31日には岡部警部シリーズ第2弾として『〜多摩湖畔殺人事件〜』が放送された。引き続き2008年9月5日には岡部警部シリーズ第3弾『〜十三の墓標〜』が放送された。
ジャニーズの後輩達に関しては、本来は同じ芸能界で活動するライバルなので、厳しくしなければならないが、自分が一番の年長者で、歳も離れているので、慕ってくればつい優しくしてしまうと発言している。なお、親しい間柄の後輩は東山紀之/神奈川県川崎市幸区出身/、木村拓哉、堂本光一/兵庫県芦屋市出身/と雑誌で語った。
芸能記者同士の座談会などで応対の良い有名人の一人に良くあげられている。その理由として、後述のレース活動が大きく影響しているからだといわれている。
2007年10月8日、結婚14年目にして待望の長男が生まれた。予定より約2ヶ月早い出産であったが、非常に元気で「まだ父親になったという実感がわかない。(未熟児で保育器に入っているため)まだ抱っこしていないが、早く抱っこしたい」と喜びのコメントを発表した。車好きの近藤らしく、名前を「轟丞(ごうすけ)」と命名。近藤本人によると、「字画にこだわり、轟の字の一番上の車の字は長男、下の二つの車は近藤本人と敦子夫人を表す意味を込めた」との事。
レース活動
1984年に富士フレッシュマンレース(現・富士チャンピオンシップレース)に参戦したのを皮切りに、「日本一速い男」の愛称を持つレーサーの星野一義/静岡県安倍郡玉川村(現・静岡市葵区)出身/のもとでレース活動を始め、1988年から1993年にかけては全日本F3選手権に参戦。1994年には全日本GT選手権(現・SUPER GT)にポルシェ962CのGTカー仕様で参戦し、第3戦(富士スピードウェイ)でアンソニー・レイドとともに初優勝を飾る。
その後は、ル・マン24時間レースやフォーミュラ・ニッポンなどを中心に活躍。2000年に自らのレーシングチーム「KONDO Racing」を設立。以後の監督としての活動の詳細はKONDO Racingの項を参照のこと。2006年からは、念願であったKONDO RacingによるSUPER GTへ日産・フェアレディZで参戦を開始した。その後、2008年に日産・GT-Rに車両変更して現在も参戦中。
2007年SUPER GT第4戦(マレーシア・セパンサーキット)にて、KONDO Racingとしての劇的な初優勝を飾る。2008年もセパンサーキットで優勝し連覇を達成したのに続き、フォーミュラ・ニッポン第7戦(富士スピードウェイ)でも8年目にして初優勝を達成した。
現在はチームオーナー兼監督業をメインにしているが、ミッレミリアやスーパー耐久への参戦などドライバーとしても活動を継続している。2007年7月にはスーパー耐久の一戦である「十勝24時間レース」に「FINA GSX ADVAN M3」チームの助っ人として出場し、ST3クラスでクラス優勝を果たした。
評価
全日本GT選手権で優勝を飾るなど活躍を見せたが、若手ドライバーの登竜門の全日本F3選手権での優勝経験がない他、1995年から2000年まで参戦した全日本F3000選手権 → フォーミュラ・ニッポンと続く国内トップフォーミュラにおいては、荒天で大荒れのレースとなった1996年の最終戦に6位入賞したのが唯一のポイント獲得であり、トップフォーミュラのドライバーとしては目立った実績は上げることはなかった。
ただ、当初は「芸能人の道楽」と冷ややかな視線を送られたにも関わらず、結果だけでしか評価されないレース活動を続ける中で、地道に努力しプロのレーシングドライバーでも難しい全日本選手権における優勝や入賞など、プロのレーシングドライバーに伍する結果を出していった様子を評価する向きも徐々に増えていき、最終的にはプロのレーシングドライバーと並び日本のレース界の中枢で存在感を持つ存在となった。
過去に岩城滉一やヒロミ、三原じゅん子や夏木陽介など、芸能活動の傍らモータースポーツ活動を行った芸能人は少なくないが、その多くが全日本選手権クラスのレースにおける優勝はおろか、ポイント獲得すらままならないまま消えていく中で、全日本選手権クラスのレースにおける優勝やポイント獲得というきちんとした結果を出していた近藤のレースへの取り組み方は群を抜いていることは確かである。そういったこともあり、「サーキット上ではアイドルの『マッチ』ではなくレーサー『近藤真彦』なので『マッチ』と呼ばないでほしい」と述べたこともある。
また、四半世紀以上に渡り日本の4輪モータースポーツに関わり続け、バブル景気崩壊後に大口スポンサーの撤退が相次ぎ国内トップフォーミュラの参戦台数が減少する中で、地道に独自スポンサーを獲得してレース活動を継続してきた点も評価されたほか、「KONDO Racing」設立以後は、レーシングチームの監督としての采配を高く評価されるケースも増えている。
レース界での交友関係
レース界でも交友関係は広く、レーサーとしての近藤の師匠的存在である星野一義はもちろんのこと、土屋圭市/長野県小県郡東部町(現:東御市)出身、鈴木亜久里、脇阪寿一/奈良県奈良市出身/とは仲が良い。
またかつてのチームメイトとして片山右京/神奈川県相模原市出身(東京都新宿区の慶應義塾大学病院で出生したことから「東京都出身」とすることもある)/、木下隆之、影山正彦/神奈川県小田原市出身/、鈴木利男/埼玉県出身/、竹内浩典/神奈川県出身/など、監督とドライバーとしてエリック・コマス、土屋武士/神奈川県出身/、道上龍/奈良県出身/、立川祐路/神奈川県鎌倉市出身/、金石勝智/大阪府出身/、荒聖治/千葉県出身/、山本左近/愛知県豊橋市出身/、ロニー・クインタレッリといった面々とも仲がよく、交友関係は幅広い。2006年から監督としてのSUPER GT参戦が決まった際には星野や長谷見昌弘の同じ日産陣営の監督らに大歓迎された。
F1中継
フジテレビのF1中継(F1グランプリ)に1989年日本グランプリでレポーターとして登場し、数年間務めた。その後、2003年からF1中継のレギュラー解説者を務めている。当初はF1ファンから解説に対して批判的な意見も多かったものの、その後現役のレーシングチーム監督としての分析を巧みに取り入れた解説スタイルを取ってからは、一定の評価を受けている
小学生男児救出
2004年8月4日の午前和歌山県白浜町の白良浜沖で溺れていた当時小学2年生の男児を救助した。男児がゴムボートから転落しているところに近藤が水上バイクで近づいて「大丈夫だ、お兄ちゃんが助けてやる」と海に飛び込み救助した。近藤は名前も言わずその場を去ったが、少年の父親は後で救助してもらった人物が近藤だったことを知った。ちなみに、この事故の朝日新聞の見出しは「人命救助さりげなく」であった。
伊集院静
伊集院 静(いじゅういん しずか、男性、1950年2月9日 - )は韓国系日本人の作家、作詞家。
民族名は趙忠來(チョ・チュンレ、???)、のち日本に帰化した。本名:西山 忠来(にしやま ただき)。韓国系日本人2世。山口県防府市出身。山口県立防府高等学校、立教大学文学部日本文学科卒。現在、宮城県仙台市に仙台出身で妻の女優篠ひろ子と共に在住。 女優で作家の西山繭子は実娘、ファッションコーディネーターの西山栄子は実姉、かつて読売ジャイアンツに在籍した高橋明投手は元義兄にあたる。
趣味は野球観戦、麻雀、競馬、競輪、ボクシング 美術鑑賞、ゴルフ。高校、大学と野球部所属。 芸能界、スポーツ界ともに人脈が広く長嶋茂雄や松井秀喜、武豊とも親交が深い。
来歴・人物
広告代理店勤務を経てCMディレクターになる。広告代理店時代に最初の夫人と結婚、二女[1]をもうけるが、1980年に離婚。
1980年の松原みき/大阪府堺市西区平岡町出身/からコンサートツアーの演出を始め、以後松任谷由実、松田聖子/福岡県久留米市荒木町出身/、薬師丸ひろ子、和田アキ子らのツアーのほかファッションショーも手がける。
1981年、『小説現代』に『皐月』を発表し作家デビュー。代表作に『機関車先生』山口県防府市を舞台とした自伝性の強い『海峡』三部作などがある。
1984年8月27日にかつてカネボウ化粧品の「クッキーフェイス」のCMキャンペーンガールで一緒に仕事をした女優の夏目雅子と七年の交際の後再婚したが、夏目は1985年9月11日に27歳の若さで急性骨髄性白血病で死去した。
伊達 歩(だて あゆみ)の名で作詞家としても活躍。近藤真彦に提供した『愚か者』で、1987年に日本レコード大賞を受賞した。その他『ギンギラギンにさりげなく』などのヒット曲がある。
1992年7月15日、『受け月』で直木賞を受賞。同年8月7日に現在の夫人女優篠ひろ子と再婚。
1993年、『乳房』が映画化、1997年、『機関車先生』がアニメ映画化し声優として参加している。更に2004年には実写映画化された。その他、テレビ化されたのは「夕空晴れて」「海峡」「あづま橋(橋の雨)」など。
2005年「ツキコの月」が帝国劇場、中日劇場にて舞台化された。
エピソード
* 近年、中学入試等国語の試験によく出題される作家でもある。
* 過去に週刊文春で掲載されていた「二日酔い主義」堂本剛/奈良県奈良市出身/と共著の「きみとあるけば」「ずーっといっしょ」角川文庫等エッセイも数多く出しており、その小説やエッセイの随所に様々な花が登場するほどの花好きな作家としても知られる。季節の移り変わり、野にひっそりと咲く花や蝶、夜空の月やそれを取り巻く星など氏の文章の綺麗さ自然描写には定評がある。また実生活で、当時高校生だった実弟と妻の夏目雅子を若くして亡くしている影響もあるのか、哀愁漂う作風のものが多い。
* 当初、立教大学ではなく美術大学に進学するつもりでいたが、当時義兄が巨人の野球選手だった影響で高校の夏休みを利用して東京に行ったおり、長嶋茂雄本人から「野球をするのなら立教に行きなさい。」と言われた。その長嶋の一言で立教大学に進学を決めた。[2]
* 今はなき、逗子なぎさホテルは結婚前の7年間を過ごした伊集院の下宿先であり後の妻、夏目雅子との愛をはぐくんだ場所でもある。
* 長編小説「潮流」は広告業界を舞台に上記の夏目雅子との出会いと共に仕事をした名CF、「アラビアのフロレンス」さながらの「日に焼けない小麦色」を制作していたディレクター時代に材を取って書かれた自伝性の強い作品といえる。大和和紀によって後に漫画化される。「天使の果実」というタイトルで刊行されたが、現在は絶版。
* 1990年、氏が40歳の時に刊行された後に映画化もされた短編集「乳房」も、あくまでも小説ではあるが夏目雅子との闘病生活の断片を下敷きに書かれたものと思われる。
* エッセイ、小説を含め上記以外、夏目雅子をモデルに書かれてたものはない。その理由を尋ねられた理由に下記のコメントがある。
o 「今の妻と一緒になったとき、先妻のことは一切口にしないと決めた。生きている人間が悲しむ方がつらいから、インタビューも一切受けない。向こうとの縁、かかわってきた人たちとの関係も全部、疎遠にして貰った。会いたいと言ってきても会いません。今の妻はできた人ですけど(ヨイショ)今のかみさんが生きている限りは、(先妻については)書かない。」[3]
* 伊集院静というペンネームは実は氏に付けられたものではなく、とある小さな広告代理店に入社予定になっていた女性のコピーライターにつけられるはずの名前であった。[4]
* 最近の文壇では珍しい華のある作家といえ、モテル男兼最後の無頼派(本人は否定) という異名 を持つ。[要出典]
* 西原理恵子/高知県高知市出身/におけら先生と呼ばれたりもする。
* 漫画家、大和和紀の編集者である夫と伊集院氏は長年親交があり「天使の果実2」の付録漫画、文庫版「瑠璃を見たひと」の解説の中で大和和紀は氏の意外な一面を暴露している。また、氏のことを作詞家の阿木耀子は「酒場ではいつもニコニコしてて、罪作りな程女性には優しい」と文庫版「白秋」の解説で書いている。
* 娘の山口繭子が小説を出版した際に連絡を取ったが「ああ、そうですか」とそっけない反応だったと語っていた。
* 恋愛小説「白秋」「白い声」については、ラストは同じパターンで終わっている。ヒロインが知人の堕胎を思い留まらせようとしたり、妊娠に救いを求めている点で作者の心境の変化が窺われて興味深い。
* 現在仙台市在住になっているが実際は東京のホテル住まい、取材のため海外に出かけたりする機会が多く、過去に仙台に居るのは一年のうち一ヶ月位の年もあった。